飛鳥北東の地をめぐる-1

2022年2月下旬、この日の最低気温は-3℃。山田寺跡の手水も凍てつく冷え込みとなりました。

日本の原風景が残る、奈良県明日香村をはじめ、古代国家の原点とも言える飛鳥地方は多くの万葉歌に詠まれ、無数の史跡とともにゆったりとした時間が流れています。

今回は、飛鳥北東の地「桜井市山田」をご案内します。

山田寺跡

明日香村奥山に隣接する、桜井市山田。奈良県道15号(桜井明日香吉野線)から、細い路地を南に入っていきます。

7世紀半ば、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)が発願した、飛鳥時代を代表する寺院の跡。

着工(641年)から2年後には金堂が完成。石川麻呂が政争により自害(649年)したのちも、幾度か中断をはさみながら造営が続けられ、676年にようやく塔が完成したと考えられています。

685年、石川麻呂の命日に開眼された丈六仏(薬師如来像)は、現在は頭部のみが興福寺(奈良市)に収蔵され、国宝に指定されています。

切り開かれた景色を見渡すと、一時は官寺に次ぐ扱いを受け、治安3年(1023年)山田寺を訪れた藤原道長が表したように、奇偉荘厳な大寺院が存在したことがうかがえます。

北から南を臨む

蘇我倉山田石川麻呂
(そがのくらやまだのいしかわまろ)

蘇我倉麻呂の子。蘇我馬子は祖父・蝦夷は叔父・入鹿は従兄弟にあたります。

蘇我氏の一族でありながら、中大兄皇子・中臣鎌足による入鹿暗殺計画に賛同。「乙巳の変」では、暗殺の合図となる朝鮮使の上表文を、板蓋宮大極殿で読み上げました。

のち右大臣に任命されるも、謀反の疑いをかけられ、ここ山田寺で自害しました。

無住の寺跡にひっそりと咲く / 2022.310撮影

雪冤(せつえん)の碑

山田寺の講堂があったあたりには、観音堂・庫裏と、石川麻呂の末裔 山田重貞が建てたと伝えられる「雪冤(無実の罪をはらす)の碑」が現在も残っています。


伽藍配置

発掘調査では、南門・中門・塔・金堂・講堂が南北一直線に並び、回廊が塔と金堂を囲んでいたことが明らかになり、山田寺式伽藍配置と名付けられました。

手前(南側):塔 / 奥(北側):金堂跡

一時は栄華を極めたであろう山田寺ですが、藤原道長来訪から間もない11世紀前半、土砂崩れにより「東回廊」や「宝蔵」が埋没、12世紀末には興福寺の僧兵による焼き討ちで荒廃。

明治時代初期の廃仏毀釈で廃寺となり、明治25年に小寺院として再興するも、現在は無住となっています。

2022.4.1撮影

東面回廊跡

山田寺では、塔と金堂のある中心区画の四方を回廊が囲んでいました。

発掘調査では、建物全体が屋根瓦もろとも西向きに倒れた状態で見つかり、蓮弁を彫刻した礎石・基壇の縁石・柱・連子窓など多くの建築部材が残っていたため、古代の建築技術を知る貴重な資料となりました。

特に良く残っていた部材のうち、保存処理・元の形に組み上げたものが、山田寺跡から西に850m(徒歩10分)とほど近い「飛鳥資料館(明日香村奥山)」で展示され、当時の佇まいが感じられます。

東面回廊跡

塔・金堂跡

山田寺の跡地には、建物の基壇や礎石が地上に残っていたため、発掘調査をする前から、塔の北に金堂があったと考えられていました。こちらからは、石灯篭の台石と、礼拝石と考えられる板石が見つかりました。

塔 / 金堂跡

発掘調査では、東回廊の柱や連子窓・石灯籠の台座・瓦や塼仏・木簡などが多数出土。うち1133点が国の重要文化財に指定され、飛鳥資料館に収蔵されています。

山田寺跡
住所 奈良県桜井市山田1258
(見学自由)
出土遺物 銅造仏頭(国宝:興福寺国宝館)
回廊・建築部材、銅製押出仏、銅板五尊像、蓮華文鬼瓦、灯籠、塼仏、金属製品、ガラス小玉、瓦塼類、土器、銀貨、木簡など(うち重要文化財1133点:飛鳥資料館)

東大谷日女命神社
(やまとおおたにひめみことじんじゃ)

山田寺跡から西側に隣接する杜の中、東大谷日女命神社の境内には、もともと山田寺境内にあったと伝えられる石灯籠があり、こちらも重要文化財に指定されています。

東大谷日女命神社

今回は、飛鳥北東の地「桜井市山田」をご案内しました。最後までお読み頂きまして、ありがとうございました。